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いいぬま雅子 笑顔あふれるまちづくり。いいぬま雅子ニュース 2000年12月10日発行
第81号

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2000年 日本平和大会 in 沖縄 パート(1)
戦争を許さぬ人々

 十二月一日〜三日沖縄に行ってきました。全国、外国から千五百人の代表が集まり交流し、米軍基地被害の一掃、基地の縮小・整理を願い、平和の共同を広げようと決意を固め合いました。
 一日目は南部戦跡めぐりと開会集会、二日目は基地調査と交流会、三日目は分科会と閉会集会と盛り沢山の内容なのでシリーズで報告します。

南部戦跡巡り

 沖縄戦は、アジア太平洋戦争の最終段階での日本国内における住民を巻き込んだ地上戦です。米軍五十五万人の大軍に対し、日本軍は十一万人、県民を根こそぎ動員、朝鮮から軍夫を強制連行し補強しましたが、勝敗は歴然としていました。南部一体は、地域住民に加えて避難民と撤退してきた皇軍とが混在する戦場となり、米軍の猛爆撃、火炎放射器により「地獄」となりました。軍隊が住民を守らず死の道連れにしたことから、県民の四人に一人、十五万人が戦死したとのことです。

ガマ追体験

 南部にはガマ(鍾乳洞のような洞窟)がたくさんあり、戦火を逃れ住民と兵士が避難していました。病院として使われていた第一外科壕では、生き残った証人、上原さんが壕での生活、爆弾が飛び込み多くの友人の命が奪われた事実を語ってくれました。
 ガラビガマは懐中電灯なしでは一歩も歩けない暗闇です。足を踏み外したら崖から転落するそんな所で、傷ついた人達が治療を受けていたのです。兵隊が来たら助かると信じていた住民が壕の外に追い出され死んだ。性の奴隷と言える「従軍慰安婦」として日本に連れて来られた女性は四十人もの兵士の相手をさせられ、ボロ布のように捨てられた。重症患者は置き去りにされたり、青酸カリで殺された。等暗闇の中でのガイドさんの語りは、息をするのも苦しくなる事実です。

平和祈念資料館

 資料館は激戦地だった、摩文仁丘平和公園の一角にあります。新資料館は、太田革新県政から稲嶺保守県政に交代したことから「史実の改ざん」問題がおこり開館が危ぶまれていましたが、今年四月ようやく開館しました。あまりにもきれいに変身した建物に旧館を知っている私は、戸惑いました。最新機器を採用、多様な展示を工夫しているけれど、,何かが足りない。それは何なのか。私が出会った沖縄の人々は、戦争につながる一切の行為を許さず、平和を求めるがゆえに、事実を語り続けています。.私も、戦争の悲劇を、沖縄体験から伝えたい。