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2001年8月19日発行 第127号 | ||
政教分離の原則を無視して靖国参拝 一九四五年八月十五日、悲惨を極めたアジア・太平洋戦争が終焉しました。あれから五十六年、戦争責任を明らかにしないまま、政府の最高責任者である小泉首相は靖国神社への参拝を強行しました。 小泉首相、ご存知ですか? 「戦争責任は誰にあると思うか」記者会見で質問された小泉首相はまともに答えようとしませんでした。13日、靖国神社参拝を強行した小泉首相は、談話で「植民地支配と侵略」と口にしながら「戦争責任」には触れようともせず、憲法違反の行為を正当化しようとしています。8月11日の党首討論会で、A級戦犯が合祀されている靖国神社参拝問題についてA級戦犯が死刑という刑罰を受けている事をあげ、「死者に対してそれほど選別しなければならないのか」と述べ「参拝は当然である」という立場をあらためて明らかにしています。しかし、靖国神社は死者を選別するという、そもそもの成り立ちを持った神社なのです。
靖国神社の成り立ち 靖国神社は、1869年(明治2年)に官軍戦没者の慰霊のために「東京招魂社」を創建した事に始まります。官軍戦没者の慰霊であることから反政府方の戦死者は「賊」として祀られることなく、靖国神社と改名された1879年以降も、祭神の規準は変わりませんでした。たとえば、明治維新の功労者であった西郷隆盛なども西南戦争では明治政府の賊であったため、合祀されていません。これが、1888年(明治21年)にペリーが浦賀に来航したしたときにさかのぼって、反幕府勢力の死亡者も合祀することになり、安政の大獄や井伊直弼を殺害した人まで合祀。1864年「禁門の変」では長州藩などの兵士が合祀され、官軍だった会津藩士は合祀されないなど時の権力がその力を維持するために使ってきた物です。勝手に規準を設けて「勝てば官軍、負ければ賊軍」と「死者を選別」するのが靖国神社の規準なのです。 欧米のマスコミがウォー・シューライン(戦争神社)と呼ぶ靖国神社 靖国神社は1974年に建てられた大鳥居をくぐると、左に高さ30mの国旗掲揚塔。境内には君が代に出てくる「さざれ石」が置いてあります。第二鳥居には左右に大灯篭があり、日露戦争の東郷平八郎像。社殿にむかって右の灯篭には海軍、左の灯篭には陸軍の戦闘場面。さらには、戦後憲法で否定された軍国主義の象徴である「憲兵の碑」「軍人勅諭の碑」。神門をくぐり、右に軍馬の慰霊像、その横には戦前、戦中に使用された兵器がならぶ。96式15センチ榴弾砲の説明文には「全弾打ち尽くし迫り来る戦車群に肉弾攻撃を敢行玉砕す」と英雄談として書かれています。 |