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みやざき克俊 みやざき克俊ニュース 2002年6月23日発行
第354号


品川からも参加しました 6.12中央集会に6万人
有事法制反対の願い込めた体験談掲載

 有事法制反対の世論が盛り上がっています。12日は代々木公園で開かれた集会(写真)に6万人が参加しました。今回は、菅澤政夫さん(戸越5丁目)から有事法制反対の願いをこめて戦争体験「手記」をお寄せいただきましたので掲載します(紙面の都合上、疎開の部分は割愛しました)。

写真上は6万人が集まった中央集会(赤旗より転載)。右は行進する品川の参加者

孫たちを戦場に送るな
 弾よけにされてたまるか

                       戸越5丁目 菅澤 政夫

 私は1932年4月15日生まれ。6人兄姉妹の三男。父は千葉県小見川町で大工の棟梁をしていたが、兄の病気治療のため家族全員で東京(戸越)に引っ越した。昭和14年11月末、1年生の2学期のことだった。

東京大空襲

 昭和20年のある夜、「東部軍管区情報、南方洋上に敵機数目標あり。北上しつつあり。関東地区、警戒警報発令」ジジジー。「…旋回中なりし敵機 数目標は南方洋上に退去せし模様。空襲警報解除」ところが、ドドンドーン。東の空が真っ赤になった。3月10日東京大空襲。日本の電波探知機に入らない超低空飛行で何百機も、しかも深夜、罪のない一般市民を、一般市民の家を焼きはらったのだ。

激しくなる空襲

 5月20日ころ、疎開先の千葉県小見川から姉と妹が帰って来た。親子8人水入らず。夜中までわいわいガヤガヤ楽しんだ。次の日帰る予定だったが、妹が「どうしてももう一晩…」と言うので、帰るのを1日延ばした。
 ところがその夜、ポウーポー、ラジオが「ジジー東部軍管区情報、関東地区警戒警報発令…」ポーポーボー「ジジー、敵B29数編隊は帝都上空に侵入しつつあり」ドドンドーン。
 父は鉄兜をかぶって屋根の上。「近いぞ。遠くの方に落ちるとき、赤い雨のように見えた。五反田方面だ」「かあちゃん、子供らを連れて逃げろ。おれらは火を消すから」父と兄2人の計3人が残った。母は下の妹をおぶった。姉は妹をつれ、わたしは学校のカバン、布団を1枚だれかと持った。電車の線路づたいに第二京浜の方へ向かって行った。ところが逆の方からぞろぞろ大勢の人が逃げて来る。「向こうは危ない。火の海だぞ!」
 近くの用水で体中に水をかぶった。「どうせ死ぬなら、家の近くまで行こう。だれかが見つけてくれるだろう」と思った。だが、もう熱くて行かれない。駅の近く、線路近くに万年塀があって大きな木がしげっていた。そこに向かった。
 雨が降って来た。天の助けだと思ったら、雨ではなく黒い油だった。敵の飛行機がまいたのだ。大勢の人が来た。白々と夜が明けて明るくなった。
 「おお、おまえらよく生きていたなあ…」兄か父に声をかけられた。神の助けか、親子8人だきあって喜んだ。しばらくしてから、わが家の方に行った。ガレキの山。熱い、熱い。焼け残りの井戸から水をくんでかけた。1日目の夜は焼け残りの家
で寝た。翌日から焼け跡の片付けだ。防空壕生活が始まった。姉と妹は千葉(小見川町)から焼かれに来たようなものだった。
 兄が働いていた会社の若社長が米1升持って見舞いに来てくれたが、次の空襲でその会社も焼失してしまった。学校が焼かれ、家が焼かれた。
 「この辺がやられるようじゃ、日本も負けだよ」と父が言っていた。命からがら逃げたので持ったのはラジオと神様の社、仏様の位牌だけだった。焼け残った中延小学校へ学校ごと居候した。

艦載機の機銃掃射

 敵の艦載機が襲来するようになった。本土決戦近しか。昼休み外で遊んでいるとヒューン バリバリバリ 機銃掃射だ。飛行機に乗っている人の顔が見えた。グラマンかP51か。

「ひゃー、中に入れ」命からがら教室に入った。機銃掃射後、低空から飛び上がろうとした戦闘機が電線に後尾を引っかけ、ドブ川(昭和医専近く)に落ちた。飛行機はめちゃめちゃ。でも、人間はいなかった。破片を拾いに皆で川に入った。
 日曜日も何もない。昼時になると湯を沸かしたり、鍋で何かを炊いていた。焼け跡からは煙がたちこめている。人間が住んでいるところには容赦なく機銃掃射。皆殺し作戦か。そして、広島に新型爆弾1発。長崎にも1発。やがて8月15日を迎えた。
 最後に、孫たちを戦場に送るな。弾よけにされてたまるか。