高橋理事長(区長)の辞任挨拶
品川文化振興事業団 評議委員会
辞任は「監督不行き届き」の責任をとるため
四月十八日に開かれた品川文化振興事業団評議委員会で、高橋久二区長は「監督不行き届き」の責任をとり、理事長を辞任しました。
辞任挨拶で区長は、日本共産党「区議会報告」の内容を批判しました。
本当に紙くずになってしまうかも知れない?
四月二一日付け毎日新聞は、「アルゼンチン中央銀行は・・二二日以降、国内全銀行の業務を無期限で停止すると発表した。」と報道しました。
この報道をどう理解したらいいのか少々不安になりつつ読みましたが、アルゼンチンの経済状況が回復どころか、一層悪化の方向にあるのではないかと思います。したがって、品川文化振興事業団が購入した一億六千万円の国債の償還は、とても無理ではないかという心配を強くしました。
そうだとすると、区民の多くの方たちが心配しているように、「紙くず」になってしまい、おおきな損害を出すことになります。
規程と要綱をつくり再発防止
財団の運営を円滑に進めるために『寄附行為』と『庶務規定』がありますが、今回のような問題の発生を防ぐために、あらたに『管理運用規定』と『管理運用要綱』を制定しました。
運用規定には基本財産と運用財産の運用方法を別に定め、手続きも細かく定めました。
「現金は、理事会の議決を経て理事長が保管すること」「直近の理事会に報告すること」「運用状況は毎月理事長に報告すること」などなどです。また、要綱では、まず「安全性を重視」「安全性の高い金融機関を選択」し、「債権は、(日本)国債・地方債および政府保証債」と決めています。さらに、債権の格付けをトリプルB以上にしています。この他の事項も含めると一八項目になります。
これらは、どれも議会で指摘された事項です。区長は「手続上の問題であり法律違反ではない」と、ことさら強調していますが「手続上」の逸脱がこんなにたくさんあったのです。
責任を真摯に受け止めず
開き直りの辞任挨拶
評議委員会は、開会後すぐに評議員と理事の辞任の報告があり、理事長(高橋区長)の辞任挨拶がありました。
挨拶で区長は、「一五年間の文化振興事業団としての活動に一定の貢献がができたと自負している」と述べられました。きゅりあんなどで開催する各種コンサートは好評でしたからそうだと思います。
しかし、挨拶を聞いていて問題だと感じたのは辞任の責任を自覚していないことです。つまり、日本共産党のニュースに報道していることを取り上げて、辞任の理由は法的責任ではなく、監督不行き届きの責任をとるとしたこと。どちらでも理事長責任を果たしていないことははっきりしたのですから言いがかりをつけていると思いました。
さらに、「税金を使っていない」とことさらに強調している点です。
朝日新聞の取材を受けて、区長は税金の問題を発言していますが、ここに明確に現れていますのでご紹介します。
記者「事業団の基本財産のほとんどは区の出資したものだ」
区長「財団と区は別であり、出資後の資金はもう財団のものだ」
記者「根っこは税金から支出されている」
区長「事業団に区から支出された金を事業団は使ったのであり、
直接税金を使ったことにはならない。どう使うかは、財団内
の運営の方法の問題であり、外から批判されるものではな
い。」
みなさんはここに示した区長の考え方についてどう思いますか?
こんな認識で辞任をしたということは、責任を自覚していないのではないかと思わざるをえません。
冒頭、アルゼンチンの全銀行が無期限の業務停止という新しい事態という記事を紹介しましたが、一億六千万円の全額損失も覚悟しなくてはならないとという危機感をもちます。
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ハンセン病隔離施設だった
栗生楽泉園をたずねて
親しくしている方たちと、四月二十〜二一日に、群馬県にある国立ハンセン病療養所・栗生楽泉園を訪ねました。感染力は弱いにもかかわらず「遺伝する」として、豪雪地域の群馬県の山奥に隔離するという異常な政策で人権侵害が行なわれていました。
「優れた民族である日本人」にあってはならない悪病として、らい予防法で強制隔離を続けてきたハンセン病施設に行くというので同行させてもらいました。
草津温泉の奥にある施設は、きれいに整地されていましたが、視力の弱くなった方たちのために、通路の角々に音声で「(ここは)○○です」とアナウンスされます。
丁寧に説明してくれたのは、国家賠償請求訴訟原告団の副団長・鈴木幸次さんです。
優れた薬の出現でハンセン病は治癒しているにもかかわらず、「終生隔離政策」のために家族と絶縁させられふるさとにも帰れないし、偏見や差別に苦しんできた経験を話してくれました。一六歳から楽泉園にいるので、ここの生活が自分の人生だと言います。両手の指が病気で失われ、顔の皮膚も変形していますが、理論的にしかし情緒的に話すので、隔離政策のひどさがよくわかりました。
この問題を通じて人権確立をさせないと、差別はなくならないといいます。
最高時には千三百人が在園、しかし、医者はたった三人、看護婦も少なかったので軽症患者が重症者を看護。また、零下一〇度にもなる草津の山道を暖房用の炭俵を担いで運ぶ作業や、断崖絶壁のような谷に下りてまきを運んだりもしたと言います。
そこに借り出されるのは軽症患者、しかし、まきをつかむ指がなくても強制で、谷に落ちる危険の付きまとう作業を断れば「特別病室」という恐怖の独房にいれられるというのです。この独房で亡くなった人は二二人。凍りついた布団をはがして荼毘に付すのが大変だったと言います。
(つづく)
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